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山口県青少年育成県民会議

 
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H30少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08
H30少年の主張コンクール山口県大会出場者のみなさん
H30少年の主張コンクール山口県大会出場者のみなさん
☆最優秀賞(県知事賞)
「私が今できること」
萩光塩学院中学校 3年 末永 夏穂
 みなさんは、ヘアドネーションという言葉を耳にしたことはありますか。ヘアドネーションとは、生まれつき毛根が存在しない人、不慮の事故や病気で髪の毛を失った人に、自分の髪を無償で提供しウィッグにすることです。私は、この活動を新聞記事で知りました。
 私の将来の夢は美容師になることです。ただ漠然とかっこいい仕事と思っていた私に、ヘアドネーションの取り組みは胸につき刺さりました。この活動に私も参加したいと思い、具体的に活動するにはどうしたらよいのかを調べ、実際に活動に参加した人の話を聞いてみました。
 寄付するためには、31センチ以上必要で、1人分のウィッグを作るには30人分の髪の毛が必要だということです。また、このウイッグを待っている人は100人以上いるという事を知りました。実際にこの活動に参加した友人は、「髪の毛を中途半端にして切って捨ててしまうより、髪の毛を失った人がヘアドネーションのウイッグで喜んでもらえると嬉しい」と言っていました。
 私も伸ばしかけだった髪の毛の長さを計り、参加することを決めました。伸ばしている途中、暑くてうっとうしいと思ったり、この長さの洗髪は時間がかかりめんどうと感じた事もありました。髪の毛が寄付できる長さになり、美容院でいくつかの束にして切ってもらいました。束になった髪の毛を空気が入らないように袋に入れ、大阪にあるジャパンヘアドネーション&チャリティー、通称ジャーダックという団体に送りました。送ってから2ヶ月ぐらいが過ぎ、短い髪型にも慣れてきた頃、私あてに葉書が届きました。それには、「あなたの髪の毛は、髪の毛が無くて困っている人のために大切に使われます。」と書いてありました。本当に自分の髪の毛が人の役に立ち、私の知らない誰かが、自分の髪の毛で明るい気持ちになってくれるかもしれないと思うと胸が温かくなりました。
 中学生の私は、誰かの役に立つことができることなどないと以前は考えていました。しかし、この経験を通して、誰でも何かしたいという気持ちがあればできるということを実感しました。切ったばかりの頃、何人かの人に「あんな長い髪の毛を切ったの?」と言われました。
 その時私は、ヘアドネーションの事を話しました。寄付するだけではなく、一人でも多くの人にこの活動を知ってもらうことも大切だと思ったからです。そんな時、校内での作文発表の場で、私に全校生徒の前でこのことを発表する機会が与えられたのです。
 私は、人の前に出て話をすることが苦手です。しかし、この活動を多くの人に知ってもらうため、勇気をもって発表しました。私の学校は女子生徒も多く、女性の先生もたくさんいらっしゃいます。きれいな髪を長く伸ばしている人がいます。私が作文を読み終えた後、このことを知った生徒や先生が「私も伸ばしてみるよ。」「知らなかった。こんな活動があるなんて。」伝わった、広がったと感じました。いつも自分の事ばかり考えてしまう私は、周りの事もよく見られる人になりたいです。この活動をきっかけに、誰かのためになること、自分にできることが少し分かりました。
 あこがれの美容師になったとき、この活動をまた多くの人に伝え、私の手で長く伸ばした髪をカットすることでしょう。その髪を大切に大切に、必要としている人へ届けるのです。そして今私はまた、髪を伸ばしています。


☆優秀賞(県教育長賞)
「萩往還で学んだこと」
萩市立萩東中学校 2年 山縣 栞乙里

皆さんは、何かを始めようとしても、自分にはどうせ無理だからとか、周りの人がこう言うから、環境が悪いからなど、他のもののせいにして諦める。そんなことはありませんか。私も少し前まではそうでした。部活も勉強も、とにかく理由を見付けて中途半端にやっていました。しかし、最近、そんな私の心を変える出来事があったのです。
私の学校では、「萩往還を歩こう」という2年生の行事があります。その名の通り、萩往還という、昔の人が歩いた道を実際に歩いてみようという行事です。私は、昔の人が旅をする際に歩いていたのだから、そこまで大変ではないだろうと、軽く考えていました。しかし、実際に歩いてみると、想像を超える厳しさでした。壁のような坂道がいくつもいくつも続き、体力だけでなく、精神もへとへとになりました。こんなに辛い道なんて、もう二度と歩きたくない、と思う程でした。そして、昔の人々は、こんなに大変な思いをして旅をしていたのかと驚きました。さらに、その旅の目的が「藩の外へ出て勉強したいから」と、強制ではなく、自分の意志でこの道を歩いたことを知りました。自分から命懸けで学びたいと願って萩往還を歩いた人がいる。昔の人の学びに対する意欲は、とてつもないものだったのです。
一方、私はどうでしょうか。目的の達成のために萩往還を歩いた方々のような、学ぶ意欲はあるでしょうか。私は、勉強は大切だと分かっていても、自分から進んでやろうと思うことはできません。今は、分からないことがあればいつでもインターネットで調べることができます。また、歩かなくても車でどこまでも行くことができます。そのような今の環境は、とても贅沢なものです。昔の人は学びたくても学べない状況があったのに、今はいつでも誰でも簡単に学ぶことができる。そのような環境にある現代社会にありながら、今まで私は何をしてきたのでしょうか。
松陰先生の言葉に、「能はざるに非ざるなり、成さざるなり。」という言葉があります。意味は、「出来ないのではない。やらないのである。」ということです。私は今まで自分より勉強ができたり、部活で上手だったりする人達に対して、もともと才能がある人達だから、などと勝手に考えていました。しかし、松陰先生の言葉を知って、私の思っていることは、やる気が出ず、結果が出ないときのための言い訳に過ぎないことが分かりました。これまでの私は、何も出来ないのではなく、何もやっていない、やろうとしていない状態だったのだと思いました。それと同時に、自分よりも出来る人は私と違って毎日毎日努力をしてきたからこそ、こんなに差がついたのだということに気付きました。才能など関係なく、気持ちの問題だと分かり、自分が今までどれだけ甘えていたのかと後悔しました。そして、これからを変えていきたい。懸命に努力していきたいと思うようになりました。
萩往還は、仲間と共に歩きながらも、私にとっては、目的に向かってひたむきに歩いた昔の人々のことを想う旅でした。今年は明治維新から150年という記念の年です。世の中をよりよい方へ変えていこうという志をもって生き、明治維新を成し遂げた歴史上の人物も歩いた萩往還。険しく苦しく、長い道のりだったからこそ、真剣に昔の人達の生き方を想い、自分を振り返ることができたのだと思います。環境のせいにしたり、才能のせいにしたりするのではなく、目的をもって何かを始めようとする心は、社会や物事を変えていく原動力です。前向きに努力すること。それを積み重ねること。挫けそうになっても、決して諦めないこと。萩往還を最後まで歩き続け、たどり着いた考え。それを手にした今、自分の力で未来を切り拓いていく覚悟です。


☆優秀賞(県民会議会長賞)
「史上最大のパフォーマンス」
萩光塩学院中学校 3年 福嶋 希衣

私は、今年の春休みに、ある映画を観ました。それは、「グレイテスト・ショーマン」です。題名にある通り、この作品は、ある1人のショーマンの話で、大体が実話です。「史上最大のショーマンが贈る、最も素晴らしいショー。」私は、この作品が大好きになりました。それは、この作品に共通点を見つけたからです。
主人公は、P・T・バーナム。彼は周りの人たちから「偏見」をもたれている人を自分のサーカス団に出演させ、ショーとして成功させた人です。出演する人の中には、ホルモンの異常で、ヒゲが生えている女性や、体の一部分がつながっている人、足が3本ある人などがいました。小さい事ですが、私は、主人公のバーナムではなく、出演者の人たちとの共通点を見つけました。共通点といっても私が、この人たちのように、今までひどい扱いを受けてきたという訳ではありません。その共通点とは、私もその人たちも、自分たちのパフォーマンスで観客を笑顔にすることを誇りに思っているという点です。
私には、「ミュージカル女優になりたい」という夢があります。小さい頃に、よく、私の両親が舞台に連れて行ってくれました。その時に、スポットライトを浴びて、大勢の観客の前でパフォーマンスしている役者さんが私には輝いてみえました。それに私は、小さい頃からダンスや歌が大好きでした。そのため、私は、将来、舞台女優になる事を決意したのです。しかし、私が小学生の時、クラスの友達の前で、自分の夢を発表する機会がありました。その時、私が自分の夢を言うと、皆は、「何それ〜」「人前で何かするのって恥ずかしいし、ちょっとおかしいよね」などと、ヒソヒソと周りの子と話していました。私は、ミュージカル女優になるという夢に、誇りを持っていたので、正直、その時はショックでした。周りは、ほとんどが「保育士」や「看護師」といった職業に就くことを夢にしていました。そのため、私が皆とは少し違った夢を目指している事が、少しおかしかったのかもしれません。しかし、私は自分の「個性」を夢にする事をあきらめたくありませんでした。私の大好きなダンスや歌で、観客の人を笑顔にしたかったのです。
グレイテスト・ショーマンにもでてきた、サーカスのパフォーマーの人たちもそうです。「見た目」などで偏見を持たれ、差別を受けてきた人々、親や知り合いまでもから、存在をかくされてきた人々。しかし、その一人一人が「個性」の塊なのです。それぞれの個性が集まるからこそ、観客から、笑顔が溢れたのです。
ひげ女のレティーを始めとしたサーカスのパフォーマーの人たちは、今まで隠してきた個性を大勢の観客の前で最大限に発揮することで、たくさんの人々を笑顔にしました。初めは興味半分で訪れた人も、彼らのパフォーマンスが終われば、誰もが「楽しかった」「おもしろかった」と言いながら帰っていきます。レティーたちは、自分たちのパフォーマンスで観客を笑顔にするという事に誇りを持っています。そして、それぞれの「個性」にも……。
私は今も、「ミュージカル女優になる」という夢を追い続けています。私は、自分のパフォーマンスで、観客を笑顔にできるこの夢に、誇りを持っています。そのため、この夢は誰が何と言おうと変わる事はありません。私が将来、この夢をかなえたら、私は、自分の「個性」を最大限まで発揮して、数えきれない程の観客を私のパフォーマンスで笑顔にします。そして、いつか「史上最大のパフォーマンス」をお届けすることを約束します。


☆優良賞
「もうスマホは要らない」
周南市立菊川中学校 2年 西村 泰紀

 真新しい制服やかばん、自転車、バットやグローブ、中学校入学のお祝いに両親は僕に色々な物を揃えてくれた。けれど僕が欲しいものは他にあった。「お前、持ってないん、かわいそうー。」いつも友達からこう言われる。うらやましい気持ちがいつも心にあった。「みんな持っちょるからスマホ買って。」と何度か両親にアタックしたことはあるが、答えは決まって「NO!」だった。2人はかなりアナログ派だ。
 中学生活も軌道にのり、それぞれが部活や勉強にと忙しくなり、口数も減ってきたのを感じていた最中、なぜか僕の友達は別の友達と遊ぶ約束をしたり、一緒に映画に行ったりしていた。ラインで約束をしていたという話を聞き、僕はふっと淋しくなった。そんなある日、クラスの学習委員が翌日の日課を間違えて板書していたため、グループラインで一斉に変更を知らせていた。忘れたのは僕を含め数名だった。両親に再度スマホを願い出てみたが、返事は決して変わらなかった。その時に初めて両親の思いを聞いた。一つ目は金銭的なこと、二つ目は今、きちんと話ができる人になってほしいといった内容だった。母は「昭和」な人だ。島育ちで遊びは海や山、時々校庭で遊ぶ日は、年齢の上下なく群れて大勢で楽しく遊んだ話を延々としている。こんな母とのやりとりはいつも平行線で終わってしまう。でもやっぱりラインで話したり、家に居ながら友達とゲームでつながることができるなんて魅力的だと思ってしまう。
 ある夜「明日の日課教えてー。」と友達から電話がきた。「誰かにラインで聞けば早いのに。」と言うと「たいきに聞けばちゃんと教えてくれるからさ。」とうれしいことを言ってくれる。受話器を持ちながら思わず顔がニヤけた。僕も日課を書き忘れることがある。当然電話を使う。「夜遅いのだからすみませんって言うのよ。」と側で母がくどくど言っている。夜分遅くにの言葉から始まり、用件を伝えて返事をもらう、この一連の流れはやはり面倒だ。でも友達の生の声が聞けるのは悪くないなぁとも思う。
 以前、東京で地下鉄に乗った。超満員の電車の中でも、ほとんどの人が一言もしゃべらずに下を向きスマホを触っている光景は僕の目には異様に映った。又、スマホに夢中になり自転車で老人をはねてしまった事故もあった。ラインが原因でいじめに発展してしまった例もある。学校では校長先生が、これからの世の中は人工知能をもったロボットが活躍する時代がくると話していた。将来なくなってしまう職業も増えるらしい。「猿の惑星」は猿対人間だが、これからはロボット対人間の世界になってしまうのだろうか?なんだか恐怖を感じてしまう。だが校長先生はロボットに機能をかき込むのは人間にしかできないことであり、これからは今以上に人の心が大切な世の中になると教えて下さった。
 両親の考えはあながち間違っていないのかもしれない。今、僕にはスマホはない方がいいのかもしれない。昔は男子のけんかはとっくみあって、ぶつかりあって翌日には何事もなかったかのようにケロッとしたもんだったと父や祖父から聞いたことがある。僕の周りでは、そんなけんかはあまり見たことがない。体と体がぶつかりあう、心と心がぶつかりあう、そんな経験が減っているのかもしれない。僕は便利さにあまり頼らず、面倒くさいこともしてみようと思った。そして友達の目を見てたくさん話をしようと思った。
 僕の友たち!もっと語ろう!もっとぶつかろう!
 僕はいつだってファイティングポーズで待っているよ!


☆優良賞
「正しい上下関係」
山口県立高森みどり中学校 3年 成本 麗菜

 「わたしたちカヌー部は先輩後輩関係なく毎日楽しく活動しています。」これがわたしたちカヌー部の新入生向けの部活動紹介です。しかし、「先輩と後輩の壁がない」というのは、よいことなのでしょうか。私はこの春新しい後輩ができて、そのことをよく考えるようになりました。
 私が所属しているカヌー部では、女子の人数が少なく、女子の先輩は1人しかいません。でも、その先輩はいつも明るくて、弱音などちっとも吐かず、いつも一生懸命で、私の憧れの人です。私がカヌー部に入部して1年が経った頃、初めての後輩ができました。女子は1人だったけど、とても嬉しくて、友達と大喜びしたのを今でも鮮明に思い出せます。その子は、とてもしっかりしていて、「いい子だなぁ」と思っていました。
 そして、今年の春になり、また新しい後輩ができました。今年は、女子が3人も入部してくれ、部も賑やかになり、これからがとても楽しみに思えていました。1年生は、自分に素直な子達ばかりで先輩後輩関係なくはしゃぐこともよくありました。しかし、しばらくすると、2年生と1年生がうまくいかなくなり、仲がぎくしゃくするようになりました。始まりは、1年生が2年生に対して友達のようになれなれしく接することからでした。私はそれまで1年生に対して、人なつこくてかわいいし、楽しければそれでいいと思っていました。でも、楽しいだけではいけないことを実感しました。
 日頃から、先輩後輩の関係を気にせずにいると、きちんとしないといけない場でも、ぼろが出てしまいます。先輩と後輩の壁がないというのは、いつも楽しいとか先輩と仲がいいという面ではいいことだと思います。でも、一度規律が乱れてしまうと修復するには時間も手間もかかり、悪循環に陥ってしまいます。実際、私の部では何度か話し合いを行い、その場では状況が良くなりましたが、いまだに裏ではぎくしゃくとした関係が続いています。ぎくしゃくしているだけならいいとしても、口論になったり、いじめなどに発展したりすると、ただ事ではなくなります。先輩も後輩も、お互いがお互いへの接し方や関わり方について考え直すことが大切だと思います。
 当事者だけではなく、その周りの人に問題があることもあるかもしれません。私たちの場合、場をわきまえていない行動に対して、「注意」をしませんでした。私たち3年生が後輩の態度を容認していたことになります。もしも、あの時こうしていれば……と思っても、もう遅いです。その時その瞬間に判断して、言わないと何も変わりません。間違ったことをしてしまった本人も、後からむし返されて言われるより、その時注意された方がすっと受け入れられるのではないかと思います。
 先輩は後輩の面倒をみたり、正しいことを教えたりして、お手本となる存在となり、後輩は、先輩から学び、感謝し、礼を尽くす。それが昔から日本人が大切にしてきた上下関係なのだと思います。そして、お互いがいい距離を保ちながら、協力しあうことで、上下関係のトラブルも減ってくるのではないでしょうか。
 最近、道徳の授業で先輩と後輩について、考える機会がありました。自分が「尊敬する先輩」と「苦手な先輩」について、話し合いました。いつも一生懸命、誰よりも頑張る、など尊敬できる先輩に対してポジティブな言葉が飛び交う中、自慢が多い、めんどくさいことは後輩に押しつける、などといったネガティブな言葉ばかりが苦手な先輩に対しては挙がっていました。私はどっちなんだろうと考えたとき、自信を持って「尊敬する先輩」だとは言えない自分に苛立ちを覚えました。
 これからは、いけないことはいけないと注意し、でも厳しくする分、後輩をたくさん可愛がり、よりよい上下関係を築いていきたいです。そして、「尊敬する先輩」に一歩でも近づくために、頑張っていきます。


☆優良賞
「今、この瞬間を生きる」
下松市立末武中学校 2年 怒和 桃子

 眩しい太陽がじりじりと私を照りつけます。何かを私に伝えるかのように。私は空を見上げ、太陽を睨み返しました。
 中学生になって、1年が経とうとしていました。中学校にも慣れ、学校行事も頑張りました。信じられる親友もできました。しかし、その一方で、私は部活動に本気になれませんでした。テニスコートでボールを打つ先輩を見ながら、物足りなさや不安を感じている自分がいました。
 私たちは春休み、島根県に遠征試合に行きました。練習試合で、私は先輩と組ませてもらいました。先輩は県の中でもトップクラスの選手です。いざ試合となった時、私は汗でうまくラケットが持てませんでした。相手は県外のとても上手な選手で、一瞬の隙を見逃しません。先輩が歯を食いしばって接戦に持ち込んでくれましたが、私のミスが原因で負けてしまいました。練習試合とはいえ、私は先輩への申し訳なさで一杯になりました。自分の一つひとつのプレーが頭によみがえり、強い後悔の気持ちが頭の中で堂々巡りを始めました。
 私が落ち込んでいると、父が穏やかな声で私を諭すように言いました。
 「今の試合で、あなただけが自分のミスを気にしていた。コートの中にいた他の3人はプレーのことを考え、試合に集中していたよ。目を向けるべきは、してしまった失敗よりも、次に自分がどんな役割をすべきかを考えるということなんじゃないかな。」
 私は父に言われて初めて、自分の中にくすぶっていた何かが突然弾けたように、気持ちが軽くなるのを感じました。私は自分の失敗や試合の結果にとらわれ、自分のことばかり考えていました。父の言葉から、自分は今まで何もわかっていなかったのではないかと思いました。自分のことで精一杯で全く周りが見えていませんでした。
 県体予選まであと1週間を切ったある日、2面しか使えないコートの1面を団体メンバー8人で使うことになりました。もう一つのコートでは、たくさんの人が長蛇の列を作って、ボールを打つ順番を待っています。「みんな文句も言わず私たちのために我慢してくれている。それなのに自分が頑張らないなんて許されない。それが団体メンバーとしての責任だし、みんなの気持ちに応えることなのだ。」と思いました。
 そして、いよいよ県体予選の日を迎えました。「ゲームカウントスリーオールファイナルゲーム……デュース」あと2ポイントで負けてしまう。私は何度も汗を拭いました。この緊迫した状況で、私のサーブからのスタートです。私はカウントを聞きながら、グリップを確認しました。その時、今までの日々が濁流のように頭の中に流れ込んできました。全力でした練習。みんなにコートを譲ってもらったこと。たくさんの人の声援。今本気にならないでどうするんだという強い気持ちが私の体を突き動かしました。そして、無心に白球を追った結果、試合に勝ち県体に出場できるようになったのです。
 最近では以前のように不安を感じることもなく、練習に集中できるようになりました。ボールを拾いながら思いました。失敗を振り返るのも大切だけど、一番大切なのは、強い気持ちをもって今を一生懸命生きることだ。そして、辛いとき、その私の気持ちを支えてくれたのは、私を応援してくれる仲間の声だった。みんながいてくれて本当に良かった。
 私はなぜだか、もっともっとできる気がしています。全力で取り組むほど世界が広がっていくような気がします。
 ふと見上げた空は澄み切った青色で、そこには真っ白い飛行機雲が、果てしなく伸びていました。


☆優良賞
「サザンカのように」
周南市立熊毛中学校 1年 三輪 大賀

 ぼくは、生まれた時から食物アレルギーがある。小麦と牛乳を食べてしまうと、命にかかわるアナフィラキシーショックを起こしてしまう。アナフィラキシーショックとは、体にじんましんが出たり、せきが出て息が苦しくなったり、気持ち悪くなってはいたりする症状が同時に出て、意識を失うことだ。
 2歳位の時にぼくは、アナフィラキシーになった事がある。だいぶ前のことだからよく覚えていないけれども、とても苦しかったということだけは覚えている。
 そうならないために、いつも食事には気をつけている。給食でも、お母さんが作ったお弁当を食べている。除去食というアレルギーの原因となる食品を除いて作られた給食を、センターで作ってもらって食べることもある。
 ぼくは、周りの多くの人たちに支えられているんだということが分かった。学校の先生や友達、給食センターの人、そして何より家族のみんな、いろいろな人たちに助けられているからこそ今のぼくがある。
 お母さんは、給食の献立などを見て、ぼくが食べられるものと食べられないものに分けてチェックしてくれる。誰よりも心強い味方だ。
 お父さんは、ぼくを楽しませてくれる。ぼくが食物アレルギーがあって旅行が大変になるにもかかわらず、何回も旅行につれて行ってくれる。非常食を食べるキャンプをしたこともある。お父さんのおかげで、たくさんの思い出ができた。
 ぼくは、何でも食べている自分を想像することがある。ラーメンってどんな味がするんだろう、うどんは?ピザは?ケーキやソフトクリーム、クッキーやシュークリームはどんな味だろう?いつか、何でも食べられるようになる日を、ぼくは、楽しみに待っている。
 ぼくの主治医の先生は、とても優しく、無理して食べる治療を進めない。ぼくの気持ちを最優先にしてくれる。あちこち講演会や診察でいそがしいけれども、アレルギーがある人達のためにがんばっている。
 ちなみに、アレルギーと深い関わりのあるIgEを発見したのは日本人である。また、アレルギーの症状をおさえる自己注射(エピペン)の成分に使われているアドレナリンを発見したのも日本人である。
 ぼくも、将来、未だ解明されていないアレルギーの新薬の開発にたずさわりたいと思っている。ぼくと同じ様に、食べずにがんばっている人たちや子供たちといっしょによりそえる医者になりたいと思う。
 ぼくが、「サザンカ」をタイトルに使ったのは、歌手セカイノオワリの曲である「サザンカ」の意味を調べたことがきっかけだった。サザンカの花言葉は、「困難に打ちかつ」というものだ。「サザンカ」の曲の歌詞も花言葉も、今のぼくと重なる部分があった。
 「いつだって物語の主人公が立ち上がる限り、物語は続くんだ」
 ぼくは、いろんな人の支えや協力や応援によってこれまでやってきた。これからも、たとえ食物アレルギーがあったとしても、いろいろなことをあきらめず、自分を大切にしていきたい。自分を守りながら、感謝を忘れず歩んでいきたい。そんな思いを込めて。
 最後に、ぼくの最大の味方である家族に、いつもありがとうと伝えたい。ぼくが、あきらめず夢をもって生活することができたのは家族のおかげだ。いつも優しいお母さん。自分の好きなことを楽しんでいるお父さん。かわいい弟とぼくの4人家族でいっしょにいられることの幸せに、ありがとう。


☆優良賞
「あたりまえ」
周南市立熊毛中学校 1年 吉松 潤

僕はこの4月9日から中学1年生になった。入学式は、多くの方々の参列により、華やかに終えることができた。中学校の始めには、入学式があってあたりまえ、準備がされていてあたりまえと思っている人も多いだろう。しかし、この世の中には「あたりまえ」ということは存在しないと思う。
僕が小学5年生の頃、教頭先生に、「皆があたりまえだと思っていることには、必ず誰かの苦労や努力があります。」と言われた。その言葉に僕は、はっとした。それまでの僕は、目に見えるものばかり気にして、その奥にある苦労や努力に、目を向けていなかったからだ。
その言葉から、僕の考え方は一変した。どんなことにも、誰がどのようなことをしてくれたのだろうと、常に考えられるようになった。
例えば、運動会。先生方が、僕達が最高の演技ができるように、構成を考えたり、小物を用意してくれたりした。僕も最高学年として、応援団長として、準備や下級生への指導をすることが多かったために、他の人よりも先生のサポートが分かった。
運動会の前日準備。地域の方々が一生懸命準備をしてくださった。僕の通った小学校は児童数が少なく、保護者の方や先生だけでなく、地域の方が手伝ってくれるのだ。
次の日には、当然のように運動会が始まった。当日は、競技にも参加してもらい、とても楽しく、思い出に残る運動会になった。僕達は地域の人との関わりが多い分、準備してくださった方々への感謝をしなければならないと感じた。
また、学校で毎日出る給食。「いただきます」「ごちそうさま」、皆言わなければいけないから言っているように見える。中には、途中で言うのをやめてしまったり、言わなかったりして、早く遊びに行きたいからなどと言って立ち歩く人もいる。本当に、それで良いのだろうか。いや、良いわけがない。なぜなら、給食には、給食を作ってくださった人はもちろん、食材を作ってくれた人、運んでくれた人など、たくさんの人が関わっているからだ。給食はあたりまえなどではない。
家での食事も例外ではない。自分の親が作っているから、感謝する必要はない、などということは有り得ない。自分のために作ってくれているのならば、当然感謝はしなければならないのではないだろうか。別に口で言わなくても、恥ずかしいのなら、そう思うだけでも良いと思う。感謝とは、口で言えば良いのではなく、感じることが大切だからだ。
今の時代では、朝、昼、夜の3食きちんと食べることができる。しかし、昔は満足に食事ができない人がたくさんいた。今でも、海外では、栄養失調で、生死の間をさまよっている人がたくさんいる。CMで、そんな人達を助けるための寄付を呼びかけるものを見たことがある。そのような人々がいるのに、僕達は食事ができてあたりまえなどと思っていてはいけないのではないだろうか。僕達がこうして食事ができることは、ある意味奇跡かもしれない。
ここまで深く考えると、あたりまえと感じることはなくなると思う。これから生きていく中で、どれだけ深く考え、感謝できるかは一人ひとり違ってくる。僕は常に、支えてくれている全ての人に感謝の気持ちを持っていきたい。
あたりまえの反対語はありがとうだと考える。調べてみると、ありがとうとは「有難う」と書く。あることがむずかしい、まれである、めったにない事にめぐりあう、という意味である。普段の何気ない生活をあたりまえだと思わず、一瞬を大切に生きていきたい。
「有ること難し」


 

H29少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08
H29少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん
H29少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん
表彰式の様子
表彰式の様子
【最優秀賞】(県知事賞)
「私と妹の挑戦」〜みんなに知ってもらうために〜
山口県立下関中等教育学校 3回生 宮本 伊織

 今このときも懸命に病気と闘っている、私の大切な妹。私と家族は、妹に寄り添って、一緒に生きています。一緒に妹とどこへでも行き、一緒に妹と歌いたい。たくさんの方々に、妹のことを知ってもらい、隣人として受けとめてほしいからです。
 私には6歳違いの妹がいます。私は彼女が産まれると告げられたときのことを、よく覚えています。思わず布団の上を飛び跳ねて喜び、大騒ぎをしました。
 実際に産まれた妹は、保育器の中で大人の手のひら2つくらいの小さな女の子でした。妹は発病率が100万人にひとりという難病「滑脳症」という病気とともに、この世に生を受けたのです。滑る脳と書いて滑脳症。脳の形成異常により、現在でも、歩くことも話すこともできず、食事も自由に取りづらい妹。
 けれど、妹が産まれた当時の私は、妹のお世話ができるうれしさばかりで、妹の病気の重大さを理解できていませんでした。母には、「病気は治るんだよね、退院できたら一緒に遊ぶんだよ。」と話していたそうです。彼女が産まれて1年がたって、退院の日が来ました。初めて抱いた妹は、小さくて、頬が柔らかくて、じんわりとしたぬくもりを感じました。
 しかし、滑脳症と共に生きることは、たくさんの困難を妹に課してきます。3歳になっても彼女は歩くことが難しく、出かけるときは、車椅子を使用しなければなりません。一緒に出かけられる楽しさの反面、私は彼女を見る周囲の目が気になるようになりました。そしてやがて、私はいつの間にか、彼女がどんなに大変な思いをしているのかも考えずに、外出するときは一緒にいることを避けるようになっていました。
 そんなある日、私は妹の通っている施設を訪問しました。そこには、様々な病気と共に生きている方々の姿がありました。そしてそこには、予想以上にたくさんの笑顔がありました。一方で、病気と闘うために辛いリハビリを友達と協力して乗り越える姿もありました。その姿を見ている内に「みんな誰も障がいに屈していない。今できることを一生懸命やっているのだ。」とすぐに気がつきました。そしてそんな中で、一生懸命頑張っている妹の姿にも気がつきました。そのとき私は、自分が恥ずかしくなりました。
 そのことに気づいてからも、私は変われませんでした。小さい子どもが妹を見て「赤ちゃんどうしたの。」などと話しかけられると、うつむいてしまったりすることが続きました。彼女を思う気持ちはあるのに、なぜか心がすっきりしない。そして私はこう思いました。それは私が彼女の病気のことをはっきり知ろうとしなかったからだと。そこで、思い切って母に「妹の病気について詳しく教えてほしい。」と打ち明けました。
 母はゆっくりと口を開きました。考えながら、誠意をもって妹について教えてくれました。受け入れにくいこともありました。ですが私がこのとき学んだのは、彼女の姉として堂々としていかなければならないということでした。
 そこで私は、妹のことをみんなに知ってもらおうと思いました。妹のことを知ってもらうことで妹と触れ合うことに抵抗感を持たなくてすむようになるからです。思い切って友達に紹介したら、すぐにみんな仲良くなってくれました。すると、お出かけも周囲の目も気にならなくなりました。みんなの中にいるとすぐに笑顔で楽しんでくれる妹。一緒にいることが私の喜びになりました。
 私は今、妹の利用している施設でボランティア活動をしています。ウクレレを演奏してみんなで歌を歌っています。歌は素晴らしいです。施設のみんなの歌声は色々あります。しかし、みんなみんな笑顔です。その笑顔と共に歌っていると、みんなとつながりあっていきたい。妹や仲間たちをたくさんの人に知ってほしい。という気持ちがどんどんわき上がってきます。
 今では、妹と妹の友達達と私は、ウクレレ発表会に参加しています。このことを通して彼女達を知ってもらいたいということ。もっとたくさんの人とつながることの大切さ。このことを発信していくことが、私達家族と仲間達の最大限の挑戦だと考えるからです。


【優秀賞】(県教育長賞)
「障害者」を差別しないで
萩市立萩東中学校 3年 児玉 清香

世界には、いろいろな人がいます。大人、子ども、高齢者。背の高い人、低い人。スポーツができる人。頭のいい人。いろいろな人がたくさんいます。そして、私たちは皆同じ人間です。しかし、世の中で人間は「健常者」と「障害者」に分けられることがあります。
 私の母は健常者ではありません。母は脳性麻痺をもって生まれ、今も足などに麻痺が残っています。目をしっかりあけることも容易ではありません。みなさんはそんな障害者について、どのような考えをもっていますか。
 私は小学校に入学するまで、母のことを「みんなと同じ普通のお母さん」だと思っていました。障害というものを知らなかったからです。しかし、小学校に入学すると、多くの友達が母の障害について疑問に思ったのか、
「ねぇ、お母さんって病気なの。」
と、よく聞かれました。ときどき、
「なんでちゃんとしゃべれないの。」
と、私にも分からない質問をされたこともありました。そのたびに、
「障害者だから、仕方ないんだよ。」
と説明していましたが、「障害者」の言葉を使うたび、聞くたびに心が痛みました。障害者は病気ではありません。完全に治すことができないのです。それでもみんなは理解してくれず、同じ質問をしてきます。そして私も、同じ説明をする繰り返しでした。
 やはり、障害者は悪いイメージばかりもたれるのでしょうか。彼らは悪いことなど一つもしていないのに。しかし、私は小学校高学年の頃から周囲の目が気になって、
「参観日、絶対来ないで。」
と、母にひどいことを言うようになってしまいました。娘の私が、母に対して決して言ってはいけない言葉のはずなのに。何度も母に言ってしまいました。でも、そのたびに母は、
「ごめんね、普通じゃなくて。」
と謝るのです。母がいつもどんな気持ちでいたか、私には想像もできません。本当に謝らなければいけないのは私のはずなのに。
 しかし、中学校に入学すると、障害に対する周囲の目はエスカレートしていきました。悪口を言わなくても、私が冷たい目で見られたり、障害者とあだ名をつけられたりもしました。もっとひどいときには、
「おまえの母さん、顔ぐちゃぐちゃ!。」
と言われたことがあります。今まで同じようなことを何度も言われたけど、面と向かって言われるととてもショックで、とても母には言えませんでした。怒り、悲しみ、悔しさが入り混じって、何度も泣きました。
 私はそのとき改めて、「障害者」は「障害者」という理由だけで、差別的な言葉を投げつけられたり、周囲の人に冷たい目で見られて避けられたりして、悪いイメージをもたれているのだと感じました。母は、障害者は、なりたくて障害者になったのではありません。それなのに、障害者について悪く言ったり、マイナスに思うことは差別であると私は思います。確かに障害者は、ものごとをするのも困難で、健常者よりも大変なことが少なくありません。でも、障害者も健常者も同じ人間です。温かい心があります。ひどいことを言えば、誰でも傷つきます。優しい言葉をかければ、誰でも嬉しくなるはずです。
 私の母は、一生懸命に私のことを育ててくれます。私のことを一番にわかって、大切に思ってくれる、かけがえのない存在です。だから今も、これからも、母の障害について悪く思わず、差別から母を守ろうと思います。
 障害者は不便でも、不幸ではありません。周囲の人に支えられて生きていることは、とても幸せなことだからです。
 私は、母が大好きです。だから、障害者を差別しないでください。障害者も健常者も、同じ人間なのですから。


【優秀賞】(県民会議会長賞)
「本当の優しさ」
周南市立熊毛中学校 3年 磯村 早希

私には保育園に通っていたときから仲の良い男の子の友達がいます。保育園の卒園式の時、私は初めて彼に知的障害があり、同じ小学校に通えないことを知りました。その時まで彼がなぜ自分たちと違う教室にいるのか、どうして食事を一緒にしないのか不思議に思っていました。幼かった私は彼の障害を知り、彼のことを「周りと違うんだ。普通じゃないんだ」と思うようになりました。
 小学校に入学し、障害がある方との交流を何度か行いました。彼もその場にいて、たくさんの人と交流をしていました。しかし、再会したのにもかかわらず、私は彼に初めて会ったかのように振る舞いました。私は彼に声をかけるのが怖かったのだと思います。もしかすると自分のことを覚えていないかもしれないと思ったからです。そして、正直に言うと心の底に、彼と仲良くしたら他の人から変だと思われてしまうかもしれないという彼を差別する気持ちもありました。そんな私の様子を見ていた周りの人は私に「周りと少し違うだけだから、仲良くしてあげて。」と言われました。
 交流会も回数を重ねたある日、私は思いきって彼に話しかけてみました。すると彼は話すことはできなかったけど、私の顔を見て笑ってくれました。その笑顔を見たとき彼が私を覚えてくれていたことが分かり、嬉しくなりました。今度こそ彼と真正面から向き合って彼がもっと笑顔になれるよう、できるだけサポートしようと心に決めました。
 それからの私は、交流の機会がある度に、「私にできることは何でも、全部してあげよう。」と思いました。車椅子を押したり物を取ってきて渡してあげたり、彼の役に立てるように心がけました。
 そんなある日、彼のお母さんからこんな言葉をかけられたのです。「いつも一緒にいてくれて有難う。」そう言われた私は彼の役に立てたことが嬉しくて、誇らしくなりました。しかし、彼のお母さんはその後にこう続けたのです。「一緒にいてくれることは嬉しいけれど、あの子にもできることがあるの。何でもしてあげるんじゃなくて、できるまで見守っていてほしいの。いつも優しくしてくれるのに、こんなこと言ってごめんね。」
 私はその言葉を聞いたときたいへんなショックを受けました。今まで私がしてきたことは優しさではなく、自己満足だったのです。彼のお母さんは、彼の立場や気持ちを考え、彼が達成感を感じ自立できるように心を配っておられました。しかし私は上から目線で彼の気持ちも考えず、自己満足と自分の罪悪感をなくすために行動していたのです。
 私は本当の優しさとは何か考えました。そして、今まで自分がしたことや思ったこと、周囲の人が言っていたことを思い出しました。すると、初めて分かりました。自分が思った「普通じゃない」「全部してあげる」という思いや行動がどれだけ彼を傷つけていたのか。「周りと違うから、優しくしてあげて。」という言葉がどれだけ彼を苦しめていたのか。彼のお母さんに、「ごめんね。」と言われるまで気付くことができなかった自分は本当に最低の人間だと思いました。
 「本当の優しさ」とは相手を知ろうとすること、正面から向き合うことから始まります。もちろん自分と相手の今まで生きてきた環境が違うのだから、相手の気持ちを相手と全く同じに理解することはできません。でも、近づくことはできます。相手の立場に立って今どんな気持ちなのだろうと考えるだけで、自然とどうするかは分かってきます。
 最後の交流の日、彼はそれまでで一番の笑顔を見せてくれました。それは本当に心が通じたことを彼が私に教えてくれた瞬間でした。この笑顔を私は一生忘れません。


【優良賞】
新たな希望
下関市立豊北中学校 3年 山口 萌

 里親さんと初めて出会ったとき、私は全く話しませんでした。向こうから、好きな色や、好きな食べ物、家でどんなことをしていたのかなどを、たくさん聞かれました。「本当のことを言ってもいいのかな。」と思っていた私は、「家では、部屋で本を読んでいた。」とだけ言いました。すると、「お父さんと話さんかったん?」と聞かれ、「親の暴力があったから、ほとんど話してない。」と言うと、「そうやったんやね。」と聞き入れてくれました。
 それは、優しく問いかけてくれるような感じで、一緒にいてとても安心できました。柔らかい声、受け入れてくれるような穏やかな笑顔でした。
 私は、相手と1対1で話せたことがうれしく、相手が自分の思いを聞いてくれることが新鮮に感じられました。とても印象が強かったので、今でもはっきりと思い出せます。
 母が亡くなった6歳の時から、父と2人暮らしだった私は、毎日のように受ける暴力と、学校でのストレスから耐えきれず、父を突き飛ばしたことがありました。そのとき父は、とても悲しそうな顔で私を見て「ごめんな。」と言いました。そのとき、私は、すごく泣きたくなりました。父の口から「ごめん。」という言葉を初めて聞いたからです。
そして、母が亡くなったときの「父との約束」を思い出しました。それは、「これからも、ずっと一緒で、支え合って生活していく。」というものでした。私はそのことを思い出し、とてもひどいことをしてしまったと、少し心が痛みました。その日は、父と全く会話をすることができませんでした。
その後、私は、今の里親さんの家に行くことになりました。里親さんの家での生活を始めたある日、里親さんから「少しだけでも実の親と話してみないか。」と言われました。でも、私はいやだと言いました。父と会うのがとても怖かったからです。もし今、父と会うと、父にひどいことをしてしまうのではないかと、ずっと父と会うことを避けていました。
でも、私は父と会うことを決めました。
再会した父から、父がいつも私の気持ちを大切に思い、私の育て方も悩んでいたことを知りました。私のことを大切に思っていてくれたことを初めて知りました。そして、荒れていた気持ちが、少し落ち着きました。
暴力やいじめなどを受けたつらさは、体験した人しか分からないこともたくさんあると思います。でも、そのつらさを、きちんと話して、たとえ一度では理解してもらえなくても、自分の気持ちを相手に伝えるべきだと思います。だからといって、自分の気持ちを相手に押しつけたりせずに、相手の気持ちもしっかり聞くべきだと思います。
私の場合は、人に話すこともできず、人の話を聞くこともできませんでしたが、話しかけてくれる里親さんのおかげで、心を開くことができました。
 私は、この経験から、新たな夢ができました。それは、「自分の思いを、自分の言葉で、自分の声で、相手に伝える」ということです。
私は、態度や文章より、声のほうが今の想いをしっかりと相手に伝えることができると思います。私は里親さんが話しかけてくれるときに、言葉の温かさや家族の大切さ、声で想いを伝える大切さに気付くことができたからです。
 もし、また父と生活するときがきたら、まず最初に、「今まで、お父さんの気持ちに気付けなくて、ごめんなさい。」と謝りたいし、「今まで大切に思ってくれて、一人で育ててくれてありがとう。」と、感謝の気持ちを伝えたいと思います。
 これからの人生に「新たな希望」をもって、たくさんの人たちと話し、自分の思いを伝え、自分の夢をめざして頑張っていきます。


【優良賞】
「バトンに託す思い」
周南市立熊毛中学校 3年 松本 裕太

 「まっちゃん、はい!」と先輩は僕の背中を優しく押してバトンを差し出しました。
 僕は陸上部に所属し、走り幅跳びが専門です。自己ベストが更新される度に陸上に対する興味も増し、とても楽しく部活動ができました。先輩たちも自分の競技種目に打ち込み、自分の目標に向けて努力を重ねていました。
 昨年の秋の県体は、3年生の先輩にとっては最後の大会でした。しかし、リレーメンバーの1人が自分の競技とリレーの時間が重なってしまい、僕がリレーメンバーとして走ることになりました。今までリレーを経験したことがない僕は、こんな自分で良いのかという申し訳ない気持ちと不安な気持ちで一杯になりました。あまり気が進みませんでしたが、僕は困っている先輩方の気持ちを考え、一生懸命リレーの練習に参加しました。そして、改めて先輩方のスピードとバトンパスの技術に驚かされ、ますます不安が募りました。
 いよいよ秋季県体の当日になりました。熊毛中のリレーはランキング1位。もちろん優勝候補でした。だから、アップをしているときも僕の頭の中は、先輩方に対する申し訳なさと不安で一杯でした。そうしている間も、時間は瞬く間に過ぎていきます。
「パン!」というピストルの音が聞こえました。その瞬間、僕は構えました。後から足音が近づいてきます。後、5メートル位のところで僕は走り出しました。「まっちゃん、はい!」先輩がバトンを僕に差し出しました。それを合図に、僕は手を後に差し出しました。しかし、バトンは僕の手から滑り落ちたのです。数秒後、初めて僕はバトンを落としたことに気がつきました。その後のことを僕は良く覚えていません。しかし、先輩にとって最後の県体で自分がしてしまったことに茫然とし、ぼろぼろ涙がこぼれました。
競技が終わってテントにもどり1番最初に聞こえたのは「ありがとう、お疲れ様。」という先輩の言葉でした。その言葉を聞いて僕はまた涙がこみ上げてきました。最後の県体、しかも優勝候補だった先輩たちの方が、よっぽど悔しかったに違いありません。僕の口から出せる言葉は「ごめんなさい。」だけでした。
大会2日目、僕は自分の出る競技がなかったのと昨日のショックから、大会を欠席しました。そして次の日、先輩から、熊毛中が総合優勝したことを聞き、驚きました。
後日聞いた話によると、先輩たちが僕のいないところでこう言っていたそうです。「明日の試合で上位に食い込めば、団体で1位になれる。自分たちが頑張るしかないだろ。」と。そして、その言葉どおり先輩たちは強い思いでライバルに競り勝ち、見事総合優勝を勝ち取ったのです。優勝はもちろん先輩たちの3年間の目標だったに違いありませんが、その強い思いの陰にある、僕に対する思いやりを感じました。きっと僕を勇気づけるために先輩たちは奮起したに違いありません。
3年生になって道徳の授業で、完全試合達成という劇的な場面で誤審をし、記録を台無しにしたジョイスの話を勉強しました。ジョイスは自分の間違いに気づくと、相手に謝り、周囲の反対や強烈なブーイングにも負けず、次の日球審としてグラウンドに向かいました。
あのときの自分を思いだしながら、自分の責任を果たすということは、結果が悪くても良くても決して逃げず、全てを真摯に受け止めること。そして、その時自分にできる最善を尽くすことだと僕は悟りました。
「まっちゃん、ハイ。」先輩は僕に優しくバトンを渡してくれました。試合の時、僕はそのバトンをつなげることはできませんでした。が、先輩たちの思いは確かに受け取りました。しっかり受け止めた熱い思いをバトンに託し、僕が全国大会に届けたいと思います。今度こそ自分の責任を果たすことを心に誓って。


【優良賞】
「考える力」
周南市立熊毛中学校 3年 弘津 健太

 最近はインターネットが普及し、とても便利になっています。道に迷ったときや音楽を聴きたいとき、買い物や個人的な悩み相談までインターネットでする時代になりました。
 そんな中で僕が気になったのは個人的な悩み相談です。そこには学校で出されたレポートや課題がそのまま画像としてアップされていたり、課題作文の例文がそのまま書かれたりしています。それを見たときに、こうやってインターネットを利用して「答え」を手に入れることに疑問を感じました。困った時に助けを求めることが悪いことだとは思いませんが、人に頼るだけで自分では何も考えていないのではないかと思ったからです。とはいえ、僕も昔はインターネットを使って「答え」を手に入れようとする一人でした。
 僕は文章を書くことが苦手です。夏休みになるとどうしても読書感想文が最後まで残ってしまいます。中学生になって買ってもらったスマートフォンで読書感想文の書き方を検索すると、悩み相談のサイトで、例文がそのまま書かれていました。これをこのまま丸写しすれば宿題が終わる、と僕は早速「作業」に取りかかろうと思いました。しかし、そのサイトの下の方に「この構成で書けば感想文はすぐ書ける。」という類のことが書いてあり、それはまるで僕のずるい心を見透かし「ちゃんと自分で考えろ」と僕に訴えかけているようでした。結局僕はもう一度本を読み直し、サイトで示してあった構成を参考にして、自分の力で読書感想文を書き上げました。
 読書感想文は自分で書き上げましたが、僕は自分に対してかなり甘いところがあります。文章だけでなく、何か問題にぶち当たるとすぐに答えを見ようとするのです。休み中の課題やテスト週間中の課題もそうです。「まだいい。まだ大丈夫。」とやるのを先延ばしにして、結局課題を溜めて、早く終わらせるために答えを写す羽目になってしまうのです。そんなことを繰り返すうちに成績も下がっていき家族に「たまには真面目にやってみたら。」と指摘されるようになってしまいました。
 このままではいけないと思った僕は、テスト週間に早めに課題を終わらせることにしました。解いていくと、どうしても分からない問題にぶつかります。そんな時は答えを見ずに解説を丁寧にたどっていきました。ヒントを見ながら問題と向き合ってみると、驚くほど簡単に問題が解けました。苦労した分、達成感も感じ、テストの点も前回に比べ上がってきました。
 僕はこの経験から考えたことがあります。すぐに答えを手に入れるのはとても簡単です。しかし、答えを手に入れるまでの課程で、自分で考えることを省いてしまうと、大切なものを失ってしまうのではないでしょうか。学校で今僕たちが学んでいるのは、答えではなく考える力です。自分で考える習慣が身についていないと将来問題が起き、壁にぶち当たったとき、自分で解決することができません。また、一見無駄に思われることの中にも大切なものはあるのではないでしょうか。
 例えば電子辞書と紙の辞書を比べた場合、早く引けるのは電子辞書ですが、紙の辞書をめくるうちに、調べたかった言葉以外にも興味を引く言葉に出会うという寄り道も、辞書を引く楽しみの一つになると思います。また分からなかったことを友達や先生や親などに尋ねるうちに、コミュニケーション能力もつき、人との絆も深まるのではないでしょうか。そして何より自分で苦労して考え、答えにたどり着いた達成感は大きいと思います。
 もちろん便利なインターネットを使うことには賛成です。しかし、すぐに答えを求めるのではなく、答えを手に入れるまでの課程を大切にし、常に自分で考えるという姿勢を僕は大切にしていきたいと思います。


【優良賞】
地球からのS・O・S
平生町立平生中学校 1年 直井 麻佑子

 ぼくは地球。ぼくは約46億年前に誕生した。同じ時期に生まれた太陽と共に、太陽系の有名人だ。
 ぼくはいつも太陽の熱によって温められている。しかし、その熱はそのままでは宇宙に逃げていってしまう。それを防いでくれるのは、二酸化炭素などの「温室効果ガス」なのだ。このガスのおかげでぼくはいつも14℃くらいに保たれているけれど、もしそれがなかったらマイナス19℃くらいになってしまい、寒くてしかたがない。つまり、ぼくはこのガス達のおかげで温かく過ごしていられるということなのだ。
 しかし、最近はぼくは熱っぽい。それは、ぼくの中に住む人類の産業活動が活発になり、温室効果ガスが大量に排出されているからだ。
 だからだんだんと元気がなくなってきて、このところ海面の上昇をおさえることができない。それにより、海抜の低い土地に住む人々やウミガメの産卵場所を奪うなど、多くの生物に迷惑をかけている。また、まんべんなく雨を降らすことができず一方ではかんばつ、ある一方では集中豪雨、河川の氾濫や農作物への被害も甚大でどうすることもできない。
 そんなぼくを助けようと、世界の196ヵ国が集まり、「パリ協定」という取り組みをしてくれているそうだ。しかし、その中でも多大な影響力を誇るアメリカがその協定から離脱するらしい。
 「ぼくはどうすればいいのだろう・・・たすけて、ください」
 「S・O・S」
 さて、中学生である今の自分には何ができるのか?貢献できることはあるのか?考えてみました。
 まず、買い物をするときはエコバックを持参し、レジ袋の使用をひかえたり、過剰包装を断る努力をしていきたいです。
 次に、車の中の不必要な物を降ろし、少しでも燃費を良くしガソリンの消費をおさえたり、アイドリングストップを利用するなど、両親の協力も得ていきたいと思います。
 また、ガラスびん・スチール缶・アルミ缶などをただ捨てるのではなく、リサイクルボックスに入れるなどして少しでも資源の再利用に努めていきたいです。
 家庭内では、冷房の設定温度を1℃上げ、暖房を1℃下げる、照明をこまめに切る、家族が同じ部屋で過ごす、またシャワーの使用時間を1日1分減らしたり、使っていないコンセントをぬくなどで待機電力の消費削減につなげる、そしてテレビやパソコンといった電子機器の使用をできるだけ避けるなど、身近でできることから行動に移していきたいと思います。
 私たちのせいでピンチにおちいってしまった地球。だから、その地球を救うのは私たちでなければなりません。世間からの関心がうすれてしまっている今だからこそ、地球からの危険信号を感知し、もう一度、私たち1人1人が自分の生活を見直さなければいけないのではないでしょうか。1人が努力するだけでは救うことができるものではありません。意識の輪をもう一度世界中に広げ、私たちの代だけでなく、その取り組みを次の世代へつなげ、持続可能な世界を一緒に作り上げていきましょう。
 「大好きな地球のために」


【優良賞】
働くということ
萩光塩学院中学校 3年 中村 文音

「共働き」これは、自分の両親が2人とも仕事をしている夫婦を指します。少し前なら専業主婦の妻と働く夫という形が当たり前でしたが、現在、共働きが主流の働き方となっています。私の両親も共働きです。みなさんは、この現代の働き方をどう思いますか。
 一言に共働きといっても午前または午後の半日で働く人。時間を区切って働く人。1日フルに働く人。と様々な働き方がありますが私の両親は2人とも1日フルに働いています。私の場合、それが今年度から始まった生活です。しかし、既に家の中で変化があります。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
「ただいま。」
「おかえり。」
といった声が家からほとんどなくなってしまいました。また、平日に家族が全員そろっての夕飯という時間も激減しました。そのうち家族で話す時間も減ってきました。寂しいです。辛いです。家族ともっと話したいです。でも、毎日、一生懸命に働いてくれている両親の姿を見ている私にはそんなこと、絶対に言えません。
 今、現在、少年・少女がいじめを起こしてしまったり、犯罪に手を染めてしまったり、と「問題行動」といわれるものが日本全国で後を断ちません。自分の未来を自分の手で壊してしまっているのです。その中でも私は、13歳から15歳の子どもが起こしてしまった事件をよく耳にします。そう、中学生です。私と同じように「寂しい」「辛い」といった思いが言葉にできず爆発したとき、「心配して!」「もっと私に注目して!」という最大限のSOSが表れるのではないでしょうか。私も実際に、今までは弟にやったことのないような当たりの強さを出してしまったり、自分の部屋で物に当たったり、部屋の中を随分荒らしてしまったりもしました。今考えるとどんな理由であってもいけないことはいけないことです。その行動が、多くの人を傷つけてしまうことをわからなければなりません。それは許されないことです。親が働くことは、私たち子どもの未来のためでもあるし、家族のためでもあるので辞めるなんてできないと思います。しかし、子どものSOSだけは見逃さないでください。
 私の家は、土・日・祝日は家族がそろい賑やかな家へと変身します。そして母の料理を家族で囲みます。その時間は心が落ち着きます。温かくなります。そして普段より何倍もおいしく感じます。笑顔が家にあふれます。明るい声が家中に響き渡ります。それが私にとって家族と過ごす時間の大切さ、温かさ、ありがたさを見つけるキッカケになりました。だから私は今、家族と一緒にいられる時間を大切にするようになりました。
 やはり、家族とのコミュニケーションは様々なことを変えてくれます。お願いです。家族内のコミュニケーションをSNSで済ますのではなく顔を合わせてお互いの目を見ながら話してみてください。テレビもゲームも全て消し、1日たった5分、10分でも家族みんなで話す時間は私たちがいくつになっても必要であると思います。そうすれば1件ずつでも少年・少女の問題行動が減るのではないでしょうか。
 私たち中学生にとってお父さん、お母さんという存在はまだまだ必要不可欠な存在です。反抗もするし、時には関係がギクシャクしてしまうこともあるかもしれません。でも、心の中ではみんなお父さん、お母さんが大好きです。仕事で疲れているかもしれません。忙しいかもしれません。でも私たちは、私は、仕事よりも大切なものもあるのではないかと思います。会話一つで少年・少女の私たちが正しい未来へ進めますように。


 

平成28年度少年の主張コンクール山口県大会について
2021/06/08
H28少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん
H28少年の主張コンクール山口県大会発表者のみなさん
【最優秀賞】(県知事賞)
ふるさとへの想いと私たちの未来
萩市立萩東中学校 2年 高屋 京佳

「都会で生きていきたい。都会に行ったら“ここ”ではできない、どんなことが出来るんだろう。」
 旅行に行ったとき、目新しいもの、建物や人々の多さを目にすると、圧倒されることが多くあります。そして、同じ日本なのに、自分のふるさとよりも素敵に見えて、「すごい!こんなものが私の町にもあったらいいな。」と思っていました。都会の全てのことへの漠然とした憧れがありました。
 私は山口県の萩市に住んでいます。萩市は高齢化が進み、人口約5万人のうち65歳以上が約2万人を占めています。「どうして萩には若い世代が少ないのだろう。」と疑問をもっていました。
 たしかに、大学も限られ、就くことのできる職業の数も、農業・漁業・観光業が中心であり、決して多くありません。
 正直に言うと、今の日本の若い世代は都会で自分の夢を叶えるほうがいいと考える人が多いのかもしれません。都会にはたくさんお店があるし、萩にはない職業もいっぱいある。自分の夢を叶える選択肢もたくさんあるでしょう。
 私自身、眼科医という将来の夢があります。夢を叶えるには、萩から出て、医学部のある大学に行かなくてはなりません。
 そんな私に、ふるさとへの想いを、大きく変える出来事がありました。
 平成27年7月に「明治日本の産業革命遺産」として、萩市の五つの資産が世界遺産に登録されたのです。世界遺産の登録に向けての取組が行われていたとき、私は、まだ小学生でした。その学習の中で、今まで知らなかった萩の魅力を知ったのです。
 かつて、萩は日本の産業発展の出発の土地であり、吉田松陰先生をはじめ、多くの先人達の知恵と志が、日本を変えていったのです。
 私は、萩は歴史のあるふるさとだと感じました。その時、身近にあった資産の素晴らしさを改めて知りました。
 また、萩は火山の関係で、土地が肥え、スイカやなす、大根など、味の良さでは定評があります。しかも、その食材を新鮮なまま食べられる幸せを感じました。
 萩市の五つの遺産が世界遺産になった時、萩市の多くの人がその喜びを共有できました。そのとき、「あぁ、私は、やっぱり萩が好きなんだ。」と改めて思いました。「萩市民がうれしいことは私もうれしい。」と、多くの人たちと、喜びを分かち合いました。
 今まで、外のことばかりしか見ていなくて、世界遺産の決定を聞いたときに、改めて私のふるさと萩を意識しました。萩を訪れる観光客が増えたときに、私が都会を憧れるように、外の人から見たら、萩にも魅力を感じるものが身近にあったのだと気付かされました。
私たち若い世代が、将来の志を胸に、チャレンジする心をもって都会に飛び出していくのは、決して悪いことだとは思いません。
 しかし、それは自分のふるさとを誇りに思っていてこそ、意味があることだと思います。私は、例え、医師の資格を取るために、このふるさと萩から離れるようになったとしても、萩市に対する思いは忘れません。ましてや、私を育ててくれたこの町を誇りに思う気持ちは絶対に忘れません。そして、私が夢を叶えることが出来たら、またふるさと萩に戻ってきて、この町の貢献に繋がることを自ら探していきたいです。そういう気持ちを私たち若い世代が一人一人もっていかなくてはならないと感じます。そうすれば、今の日本のような都市部への人口集中も減ってくるのではないかと思います。
 そして、今私が思うことがあります。「ふるさとへの感謝と誇りを忘れずに、ふるさとの想いを、私たちの未来に結びつけていきたい。」と。

【優秀賞】(県教育長賞)
私たちが住んでいる日本国内のルール
萩市立萩東中学校 2年 橋本 茉実

今年から、18歳以上の国民は投票権を得ることになりました。私たちは、日本のルールを考える政治家を選ぶ投票権という権利を、今までの先輩たちよりも2年ほど早く得ることになったわけです。
 「自分は、政治のことが分からないから、投票しない。」と関心を持っていない人。
 「自分1人が投票しなくても、そんなに変わらないよ。」と1票の重みが分かっていない人。
 これまで、テレビのニュースや新聞記事でこうした投票権を持っている人の選挙に対する声を耳にしてきました。
 私も、そうした人たちと同じで、今まで日本国内の政治について、全然分かっていないし、ニュースを見たときに、「日本の政治はこれからどうなるのだろうか。」とほんの少し思うことはあっても、自分には関係ないことのように見ていました。
 しかし、自分が5年後には投票権を得ることができるようになったことで、政治のことについて、少し関心をもつようになりました。投票権って何?政治家を選ぶってどういうこと?どうやって選ぶ?いろんなことがわからなくて、家族に聞いてみました。
 すると、家族もニュースで見た人たちと同じで、あまり関心がなかったことが分かり、これではいけないねという話になりました。そこで、家族みんなで考えることになりました。
 まずは、今、学校で学ぶ政治や選挙のことは一体、いつ学ぶのかというところから話をしました。すると、中学校の3年生になってから学ぶことを知りました。そこで、高校生の姉が持っていた中学3年生の公民の教科書を読んでみようということになり、みんなで読んで、いろいろと話しました。
 教科書には、日本の政治は人数が多い政党が中心になって、政策を考えていることや、選挙制度のことが書かれていました。教科書を読んでいくうちに、これから自分が、投票権をもつにあたって、政党や政治家が考える政策をよく知り、自分が納得できる政策を考える政党を応援していくことの大切さを感じ始めました。だから、今までの何も知らない、自分には関係がないと人ごとのように思っていた政治に対する考えでは、ダメなのだと、焦りと怖さが生まれました。
 それとともに、テレビで見た人たちの「自分が投票しなくても世間は何も変わらない。だから投票には行かない。票を入れなくてもいい。」といった声。それではいけないのだと思いました。
 5年後には投票権が得られます。私は、誕生日が遅いので、同級生の中では投票権を得られるのが遅いです。最初は「単純に考えてラッキーだ。」と思っていました。しかし、今は1票の重み、大切さが分かります。だから、人任せにするのではなく、少しでも早く責任をもって投票したいと思います。
 私たちが住んでいる日本国内の方針、つまり政策は、政治家が決めています。その政策を決める政治家は私たち国民が決めています。その政治家に思いを託して、日本という国をより良くしていくためにも、私は、投票権を得たら、政治家の考えていることをしっかり聞いて、私が賛成できる政治家を選ぼうと思います。私は絶対に政治家を選ぶ権利を行使しようと思います。
 これから選挙に行くためにも、私たちは、受け身の姿勢ではなく、政治の仕組みや政治家の考えていることをしっかり知って理解し、自分が判断することができるようにならなければなりません。私は、今まで読んでいなかった新聞や、関心がなかった政治のニュースにも興味をもち、5年後に備えて、しっかりと学んでいきます。

【優秀賞】(県民会議会長賞)
命が教えてくれたこと
周南市立熊毛中学校 3年 藤井 美紗

 私の家族は両親と兄2人、姉1人、そして愛犬の6人と1匹です。私は4人兄弟の末っ子で、特に1番上の姉とは12歳差で、1番年齢の近い兄とも6歳離れています。
 両親は共働きなので、姉が友達と遊ぶ時間も惜しんで、幼い私の世話をしてくれました。母が仕事で保育園の送迎が出来ない時は、学校の帰りに姉が代わりに迎えにきてくれるなど兄や姉には、小さい頃からずっとお世話になっています。
 一昨年、その姉が初めて出産しました。姉は月に1度の検診が終わると、必ず私と母に赤ちゃんのエコーの写真を見せに来ました。私は4ヶ月や5ヶ月の頃の写真を見てもよくわからなくて、「何これ?どこが顔か分からんから宇宙人みたい」と言いました。すると姉は、怒ることもなく笑顔で「ここが目で、ここが鼻で」と嬉しそうに教えてくれました。私が性別を尋ねると、姉は最初「男の子がいいな」と言っていたけれど、赤ちゃんが成長していくうちに「元気な子が生まれてくれたら、それだけでいい」と言うようになりました。そして、日々大きくなるおなかで、落とした物が簡単に拾えていたのに拾えなくなるなど、出来ないことがどんどん増えていく毎日でした。しかし、不満や不安の表情より、むしろ笑顔の方が増えました。日々の何気ない動作にも我が子に対する思いやりが見て取れました。おなかをさすったり、階段や段差の上り下りにも細心の注意を払っていました。また、赤ちゃんの洋服を選ぶときも、おしゃれなデザインよりも赤ちゃんの動きやすさや肌のことを考えて選んでいました。姉の、まだ見ぬ我が子への愛おしさが日々深まっていくのを、私は間近で見ることができました。
 今か今かと我が子との対面を待ちこがれる姉の気持ちとは裏腹に、予定日を1週間過ぎても産まれません。そこで強制的に陣痛を起こし、いよいよ姉の出産が始まりました。しかし、陣痛が始まってから産まれるまで4日もかかりました。その様子を間近で見ていた母に話を聞きました。不規則に襲ってくる陣痛の痛みに、泣き言ひとつ言わず必死に耐える姉の横では、夫である義理の兄が昼夜を問わず姉の腰をさすり、励まし続けていたそうです。私には、兄がまるで姉と一緒に出産を乗りこえようとしているように思えました。
 4日間は姉にとっても母にとっても、とても長いものでした。母は心配と不安で、「替わってあげたい。早く痛みから解放してあげたい。」その一心だったそうです。
 そんな家族みんなの不安や期待の中、やっと新しい命が誕生しました。兄は感激のあまり言葉が出ず、目には涙が溢れていました。母は姉の子供が生まれた嬉しさよりも、自分の子供である姉が4日間頑張ったことに対して、涙が止まらなかったそうです。
 私はこの話を聞いたときに、生まれた赤ちゃんが姉の子供であるように、姉や私は母にとってかけがえのない大切な存在なのだと実感し、命のつながりを感じました。誰もが周囲の人の祝福を受けてこの世に生を受けた、かけがえのない命なのです。そして、親は自分以上に子供のことを大切に思って子供を育み、それを何代も繰り返し、永遠の過去の命を受け継いで、その1番先端に私が存在しているのだと思いました。
 私は命が宿り、生まれ成長していく過程を身近に感じることができ、とても幸せです。私の人生の中でこの経験は、命の誕生だけにとどまらず、これからの友達や先生、家族、地域の方との関わりに大きな影響を与えました。そしていつか私が母になったとき、この経験はきっと大きな糧となるでしょう。
 もうすぐ姉には2人目の子ども、私にとって3人目となる姪が誕生する予定です。新しい命に出会える日が今からとても楽しみです。

【優良賞】
小さな出会いから生まれた大きな夢
萩市立大井中学校 2年 森田 美穂

 「What’s wrong?」
これは、私の運命を変えてくれた言葉です。
 私には、後悔していることがひとつあります。それは、昨年の夏休みに行われた、「世界スカウトジャンボリー」でのことです。海外から来られた方々は、50名近くおられたでしょうか。いっしょに竹細工を作ったり、流しそうめんを食べたりしたことは、忘れられない思い出です。こんなにたくさんの海外から来られた方々と接することはめったにない体験です。わくわくする気持ちの反面、私は昔から初対面の人に自分から声をかけることができないところがあり、最後まで会話をすることができませんでした。積極的に話しかけている高校生たちを遠くから眺めながら、私は何もできませんでした。
 あるとき、いとこのお姉さんが海外での留学について話してくれました。彼女は、カナダとオーストラリアに留学していました。
「もう一度行きたい。」
そう言う彼女の表情は、とても生き生きとしていました。彼女の話を聞いて、私は外国のことに興味が湧いてきました。けれども、その頃の私は、興味のある仕事はあっても、夢とまでは言えませんでした。自分に自信がなかったからです。
 「どうせ私にできるわけないし。」
そんな言葉ばかり繰り返す私に、母は、
「私は夢をあきらめて、今でも後悔していることがあるよ。」
という話をしてくれました。私が何でもすぐにあきらめてしまっていたからです。母は、若い頃には、夢のことをあまり気にも留めていなかったそうです。だけど、最近になって
「あのとき、こうすればよかったな。」
などと思うようになったそうです。母が今になって後悔しているということを聞き、私は、
「後から後悔したくないな。」
と思うようになりました。
 そんなときのことです。私の人生を変えてくれる出来事がありました。最近、萩にも世界遺産に登録された観光地があります。そこに、海外から観光に来られた方が2人いらっしゃいました。地図を広げ、困っているように見えたので、勇気を出して、
「What’s wrong?」
と、話しかけてみました。そうすると、地図で「反射炉」を指差しました。私達は、1年生の頃に「道案内」について勉強していたおかげで、教えてあげることができました。その日のうちに、このようなことが2回もあり、海外からの旅行者は日本語で「ありがとうございます。」と言って、にっこり笑って手を振ってくれました。
「ありがとう」という言葉を言われたこともうれしかったのですが、それよりも、自分の英語が相手に伝わり、分かってもらえたことが1番うれしかったです。そして、この2度の体験が私に夢を与えてくれました。
 私は教科の中でも、英語と国語が得意で、好きな教科です。この二つに関わった仕事、それが「日本語教師」という仕事です。まず、夢への第一歩として、この夏、職場体験で、日本語教育の専門学校に行くことを決めました。そこで、海外の方々とのコミュニケーションや仕事内容について学び、夢の実現につなげていきたいと思っています。
 小さな一つの出会いから、私はなりたいと思える仕事を見つけることができました。あのときの一言が言えなかったら、今の私はいません。後悔をするくらいなら、まず、積極的に行動してみよう。それが夢をつかむチャンスにもなると思います。「できるわけない」という一言で、挑戦することから逃げて、小さな自分が傷つかないように守ってばかりいては、何もつかめません。行動こそが希望です。新しい自分に変わっていくために。

【優良賞】
「伝える」ということ
周南市立周陽中学校 2年 須山 和奏

 「そうじゃないのに…。」
 今日もまた、うまく伝えることができなかった。
 私は部活でキャプテンをしている。その中では、部員に指示したり注意したりする場面がたくさんある。さらに、4月に1年生が入ってきたことによって今まで以上にまとめる機会が増えたのだが、一部の人にしか伝わっていなかったり、みんなが理解していなかったりすることが多い。自分の気持ちをしっかり言っているのに、みんなにちゃんと伝わっていないのだ。そんなある日、先生から、
「キャプテンなんだから、もっとしっかりと指示を出しなさい。」
と言われた。どうして伝わらないのか分からなかった私は、先生からの言葉にとても悩んだ。なぜうまく伝えることができないのだろう。私には、何が足りていないのだろうか。
 言葉は、人が相手に気持ちを伝えるためのとても大切な手段だ。しかし、簡単に思いを知らせることができるという便利な部分がある反面、ちょっと言葉を選び間違えたり、タイミングを間違えてしまうだけで、誤解を招き、相手に嫌な思いをさせてしまうこともある。
 今までの自分の行動を振り返ってみると、私はいつも自分が伝えることばかり考えて、相手の状況や気持ちを理解していなかったことに気付いた。それに、指示がうまく伝わらないことに歯がゆさを感じ、言葉を選べず、厳しいことを言ってしまうこともあった。結果的に、相手を傷付けてしまっていたのだ。自分の思いを一方的に伝えるのではなく、その言葉を受け取った相手がどのような気持ちになるのか考えれば、しっかり伝えることができていたのかもしれない。
 今、私のまわりには、SNSなど文字だけでのやりとりが増えている。私も利用しているのだが、顔の見えない相手との文字だけでのやりとりは、本当に難しいものだと感じている。 
 SNSなどでの会話では、相手の表情を知ることができない。送られてくる文章のみから相手が伝えたいことを理解するのは難しいため、勘違いからトラブルが起こってしまうことも多い。だからこそ、相手に文字を送るときには、しっかり言葉を選び、相手がどのような気持ちになるのか考える必要があると思う。
 しかし、実際のSNSでの会話には、軽い言葉ばかり並んでしまっている。その場に会話の相手がいるわけではなく、表情を知ることができないからこそ、逆に油断してしまっているのだ。SNSでの会話をすることが増えてきたことによって、実際誰かと話す時にもいつの間にか軽い言葉ばかりの会話になってしまい、相手にうまく伝えることができなくなったのではないだろうか。
相手の表情や反応を見ることで、どれだけ相手に思いが伝わりやすくなるのか。相手の気持ちを考えるということが、どれだけ大切なことなのか。私たちは、そのことをあまり考えなくなってしまっていたのだろう。SNSによる影響は、思った以上に大きいものだったのだ。
 「みんな、ちょっと聞いてくれる?」
しっかり言葉を選び、一人一人の表情を確かめながら指示を出した。
「はーい!」
元気な声が返ってきた。ちょっと意識して話し方を変えるだけで、ここまで上手く伝わったことが、すごく嬉しかった。
「よし。今日も頑張ろう。」
 春の風が、私の頬をすがすがしくなでた。

【優良賞】
家族の「温かさ」
周南市立周陽中学校 2年 陝〕枉
 
 私は、重い扉を開け、祖母の所へかけ寄った。意識がなく、酸素マスクから聞こえる、呼吸の音。祖母の入院生活で家族の温かさを知った夏休みだった。
 私は、いつものように部活から帰り、家でのんびりしていた。すると、母が帰ってきて「ばあちゃんが倒れたから、病院に行くよ。」と言われた。私は頭の中が混乱して真っ白になった。私が、部活から帰宅するのと同時に祖母からの電話があった。
「一人で大丈夫?何かあったら連絡してよ。」と言われた。その時から具合が悪かったのかなと病院へ向かう車内のなかで考えていた。病院に着くと、祖母は今、手術中と聞いた。待合室でたくさん考えた。大丈夫かな、早く会いたいななど、もう祖母に会えないのかなと考えると、目に涙がたまってしまった。いつもはお腹がすくのに、その時ばかりは全く食べる気になれなかった。
 手術開始から約5、6時間後に医師が待合室に来て、手術の成功が報告された。私の家族は、何度もお礼を言った。私もまた祖母と話せるようになることができると思うと、とても嬉しかった。祖母は、「くも膜下出血」だった。今まで元気だった祖母からは想像のつかないことだった。
 祖母は、集中治療室、ICUという所にいると聞いた。その部屋は、中学生以上が入室可能だ。でも、その日私は祖母との面会を拒んだ。祖母に会いたい反面、意識がなく、たくさんの管につながれた祖母に会う勇気がなかったからだ。私が、笑顔ではなく、心配な顔で会ったら、祖母は元気になれないなと思った。結局、その日は祖母に会うことなく帰った。
 それから、何日かして私は、父と母と祖母に面会しに行った。消毒をし、マスクをつけ重い扉を開けた。意識が戻って、想像していた以上に元気な祖母がいた。祖母とは部活や学校生活について話した。酸素マスクがあってしゃべりづらそうだったが、笑顔も見られた。それからは毎日のように祖母に会いに行った。
 私が祖母との時間で一番楽しかったのは、食事だった。食事をしている祖母を見ていると、日頃のつかれや悩みもふっ飛んでしまうくらいに楽しかった。今日のメニュー、何かななど話が盛り上がったことを覚えている。
 それから、何週間か過ぎて祖母が集中治療室を出て、普通の病室になったと聞いたときは、自分のことのように喜んだ。今まで祖母に会えなかった、私の弟と妹も久しぶりの再会を心待ちにしていた。祖母と話しているときは時間があっという間にすぎていく。そんな日を繰り返していくうちに1ヶ月が過ぎて、祖母が退院した。家族みんなで祖母を囲んで食べた食事。こうやって家族でご飯を食べられることも改めて幸せなことなんだと思った。
私は、祖母が倒れて、より家族の温かさを感じた。毎日毎日家族とご飯を食べたり話したりできるのは、当たり前のことではないと思った。ささいなことで母と喧嘩をして口も聞かないこともあったが、母は全て私のことを思って言ってくれていると思った。私は、祖母の入院で「家族」への考え方を見つめ直すことが出来た。私を育ててくれた親やいつも優しく面倒を見てくれた、祖父母に感謝したい。そして、私が大きくなったら日頃の感謝の気持ちを込めて親孝行をしたい。今まで支えられていた自分は、支える側に変わる。今、私にできることは、学校生活や部活動のことを話して教えてあげることだと思う。そして、何より健康で過ごすことが、家族にとって一番嬉しいことだと思う。私は家族が大好きだ。これからも、家族への感謝の気持ちを忘れず一日一日を大切に過ごしていきたい。

【優良賞】
私のふるさと
周南市立熊毛中学校 3年 児玉 明香里

 兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
 私は周南市の八代と言うところに住んでいます。田舎ですが、ナべヅルの越冬地でもあり、八代は有名な童謡「ふるさと」に似ています。小さいときには友達と棚田のあぜ道を走り回っていました。そして、自然豊かな八代は地域のつながりの強い、とても温かいところでもあります。
 いつもの学校帰り、私はスクールバスから降り、家へ向かう緩い坂道を登っていました。ふと顔を上げると、犬の散歩中のおじさんが見えました。ご近所さんではありませんが、昔から散歩をしていると、たまにすれ違う顔見知りのおじさんです。いつもどおり挨拶をします。こっちを見上げてハアハア言っている犬にも「こんにちは」を言い「かわいいですね。」「そうじゃろ。」から会話が始まります。しばらく歩きながら話していましたが、ついには座り込んでたくさん話をしました。話題は中学校のことや最近おもしろかったことです。いつの間にかだんだん日が暮れてきて、そろそろ帰ろうというときにおじさんは「頑張りいよ。こんなおいちゃんでも、応援しちょるけえ。」と言葉をかけてくださいました。ほんの一言なのに、何だかとても勇気づけられた気がしました。
 次の日、私は学校で友達にこの話をしました。すると友達は「えっ、挨拶以外の話を、しかもそんなに長い時間するの?」と目を丸くしていました。私はなぜ驚かれるのか分かりませんでした。
 そんなある日こんな話を聞きました。「都会では近所にどんな人が住んでいるのか知らない人がいて、アパートやマンションでは隣の人の顔も知らない人もいる。」と。私はその時初めてなぜ友達が驚いたかが分かりました。きっと友達から見れば、地域の人としか分からないおじさんと座り込んで話をするのが不思議に思えたのだと思います。私はずっと八代で育ってきたので、すれ違った人と話をするのは当たり前になっていました。
 八代はだんだん過疎化が進み、都会に比べると利便性に欠けることが山ほどあるかもしれません。しかし、ふるさと八代の人々の心の温かさは何物にも代え難い私の宝物です。
 先日、熊本で大きな地震がありました。その新聞記事を読んでいて印象に残ったことがあります。それは「地域愛が助け合いの精神につながる」という言葉です。日頃から交流している地域では、互いに連携して、愛する地域のために自主的に活動したと書いてあり
ました。もし、八代に同じことが起きても私達は自分達の力で立ち上がれると思います。
 今、都会で薄れている人と人とのつながり。どうすればみんなが八代のような心のつながりがもてるようになるのでしょうか。
 私達の学校では昨年延べ1,500人の地域の方が学校に来られたそうです。そして学校花壇に植える苗の種まきを教えて下さったり、本の読み聞かせをして下さったりしました。
そうやって知らない地域の方とふれあううちに、私たちは地域の方とも顔見知りになっていきました。また、私が所属している吹奏楽部は、地域のお祭りなどによく出向き、演奏をさせていただいています。私はこんなふうに地域と積極的に交流することが、地域とのつながりを深め、温かい人間関係を創るのに役立つのではないかと思います。
 私の夢は小学校の先生になることです。先生になって子供たちと地域をつなぎ、八代の人々から学んできた温かさや優しさを他の地域の子供たちにも伝えたいと思っています。そして、いつかまたふるさと八代に戻り、地域の方に恩返しできればと願っています。
 志を果たして いつの日にか帰らん
 山は青きふるさと 水は清きふるさと

【優良賞】
燃料電池の普及を願って
周南市立菊川中学校 3年 中村 優希
 
 「燃料電池」と聞いたとき、みなさんは、どのような印象を持ちますか。新しい電池、ちょっと高価な電池、あるいは、よく知らない、という方もいるかもしれません。
 「燃料電池」。これは、ただ新しいだけではなく、とてもエコロジーで、さまざまな可能性を秘めている電池なのです。
 自分が燃料電池に興味を持った理由は、自分の住んでいる場所にあります。ここ山口県周南市は、石油コンビナートで有名なところであるとともに、「水素先進都市」でもあります。燃料電池は、簡単に言えば、酸素と水素を反応させて作り出せる電気を利用しているのですが、石油コンビナートで得た水素を発電に利用する、というのが、工場群が建ち並ぶこの町ならではの構想です。この構想が、自分の住む町の発展につながると思うと、胸が躍りました。
 水素といえば、火と反応して爆発するなど、少し危険なイメージがあるかもしれません。しかし実は、燃えやすいガソリンよりもはるかに安全性の高い燃料なのです。
 燃料電池の利用方法は、家庭用の定置用燃料電池や燃料電池自動車などにとどまらず、外国で多くとり入れられているものに、燃料電池バスがあります。開発中のものには、トラックやフォークリフト、さらには、鉄道車両や船舶などもあります。これらは、もう30年ほどもしないうちに実用化されているかもしれません。
 先日、熊本で大きな地震が起きてしまいました。このことも、自分が燃料電池を叫ぶようになった一つの要因です。燃料電池は酸素と水素さえあれば発電できるので、被災時でも使用することができます。また、燃料電池自動車の中で発電した電力は外部の施設に送ることができます。たとえば、1病院で必要な電力を燃料電池自動車8台で、災害時避難所の照明や給湯200人分を燃料電池自動車1台たらずでまかなうことが期待されています。電気自動車でも同じように電気を送ることができますが、燃料電池自動車は、その約5倍の給電能力があるのです。
 熊本県は、今まで大きな地震など起こるわけない、と思われていました。でも、実際には起きてしまいました。山口県も、大きな地震なんて起きないだろうと思われている県の一つです。地震に限らず、災害の少ない県です。ですが、絶対に大きな災害など起きないとは決していえません。そのような県でこそ、この燃料電池は推奨されるべきだと思っています。
 自分は現在14歳。自動車運転免許証が取れるようになるのが、4年後の18歳のときです。燃料電池自動車が、ハイブリッド自動車と同じくらい普及する予定は、2025年ぐらいと言われているので、自分が車の運転を出来るようになったときに燃料電池自動車を持つことは、まず無理でしょう。けれども、無理と思ったらそれで終わり、何もできません。ほんの数年前まで燃料電池自動車なんて聞いたことも、ましてや見ることなんてなかったはずです。けれども今現在、少しずつですが、水素ステーションも増えています。もう水素や燃料電池の利用は、夢物語ではありません。
 安全でエコロジーなエネルギーである水素を利活用した燃料電池。様々な使い道が考えられるこの燃料電池の、更なる成長と普及を期待しています。


 

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草原
やまぐち子育て連盟 http://yamaguchi-kosodate.net
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